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本殿内の神殿は元和元年(1648)旧綴子村肝煎である親方・高橋八郎兵衛及び総郷中が願主となり所謂「おむろ」として建立され、ご神体はその奥深くに鎮まる。5尺4方と小型だが千鳥と唐破風が付いた流造でこけら葺き、菊花紋・葵紋入りの総漆塗り。虹梁等の彫刻部分は極彩色の美麗なもので現建造物中では最古となる。文化9年(1812)本郷庚申講中より神殿「おむろ」の修理塗り替えがなされた。
本殿・幣殿(祝詞舎)は大正11年の造営、11月15日に遷宮祭が執行された。拝殿は宝暦7年(1757)に再建され、今に至るまでその都度改築や修理が施されている。社殿様式は本殿・幣殿・拝殿とつながった権現造、入母屋造りで当地方では珍しい妻入り。 |
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内館文庫は八幡宮綴子神社別当の社家武内家が営んだ私塾である内館塾に関わる土地・建物・蔵書及び塾用器物などを含む史跡の総称である。この塾は慶安年間(1648〜1652)11代常覚院実明が開設し、享保15年(1730)14代神宮寺烈光が秋田藩の許可を得たと伝えられる。18世紀には宮野伊賢・般若院英泉(烈光の弟)などの学者が秋田県北部各地から来た塾生の指導にあたり、塾は明治7年(1874)綴子小学校が創立されるまで続いた。
塾舎は文化年間(1804〜1818)改築の社務所兼長床を中心に、宝暦7年(1757)再建の綴子神社拝殿も臨時教場として使用され、拝殿柱には当時の墨跡が残り当時を偲ばせる。蔵書は版本・筆写本など合わせて850種1500巻余りに及び、神道・修験道・儒学・仏教・国文・国学・天文・暦学・医学など広範囲にわたり、この内英泉の著書は96種106巻にのぼっている。その他書箱・机・大硯などの塾用器物も残っている。藩校・郷校などの公的施設が存在しない秋田県では、この様な江戸時代の庶民教育施設がまとまって残っているのは貴重である。昭和34年3月1日文化財指定、秋田県指定史跡。 |
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境内ご神木「千年桂」は創建当時のものと伝えられ、社殿の無かった当時は神宿るご神体として祀られており、元々は千年桂を丸く囲むようにして数社の祠(鬼神社・琴平神社・戸隠神社・雷神社・唐松山神社・相善神社・文玉神社)が建てられていた。現在は樹下に大桂神社を祀り、縁結び・子宝・安産の神とされる。旧鷹巣町指定天然記念物。又、境内の古オンコ(一位)は初代植樹と伝えられ、樹齢600年余りで桂と共に県内で珍しいものであるが焼失し根のみ残る。
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般若院玉峯英泉は、正徳4年(1714)綴子神宮寺家(武内家)14代烈光の三弟として生まれる。9歳にして内館塾で学び13歳で学文修行の道に入り、元文元年(1737)久符(秋田)に出て講席に連なり、同5年(1741)初めて出国、大和葛城大峰山に入峰、以後全国各地を巡り秘法求道講演に行脚し、延享4年(1747)江戸にて孔雀経(唐の僧である義浄の訳本)を得て講究、宝暦元年(1754)伊勢参宮、白山・出雲・英彦山・厳島を経て京都にて醍醐光台院に遊学、その後山形上ノ山に寄宿中「訂正本」の原文を完成させたものである。英泉の訂正本「佛母大孔雀明王経」とは平安時代初期山伏修験道の開祖「役ノ小角」が最も神聖尊重した根本経典で、当時世に流布されていたものの訓古を正したものである。寛政5年(1793)15代神宮寺龍峯代に秋田から県北一帯の浄財により京都から出版され秋田初の刊行物とされる。版木本で上・中・下3巻9,000部、秋田文化の原点とされ、記念碑として当時建立のまま今に残る。
後年綴子に往来した菅江真澄は、文化4年「雄賀良能多奇」項に般若院の事績を絶賛している。関係の文書・英泉の著書・草稿写本等800点は全て内館文庫に所蔵される。旧鷹巣町指定史跡。
記念碑文〜「佛母孔雀明王経三千部寿命百歳常時共楽龍峯」 |
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本社綴子神社の境内に古くからあるお社で、八幡大神(応仁天皇)の母君の神功皇后(唐松様)と稲荷神を併せ祀る。この稲荷神は旧綴子村肝煎高橋家の守護神を移したものとされ、現社殿は平成に新築した田中八幡神社の古いご本殿である。 |
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庚申とは1年に6回巡って来る干支「庚申」のこと。羽州街道の要所として栄えた綴子では他国からの往来も盛んで、庚申様の猿田彦神は道の神であることから道祖神信仰とつながり、交通の安全を願ったという。古くは綴子各集落の入口に祀られたが各神社境内に移転された集落もある。またこの日は人の体内に居る三尸の虫がこの日眠っている間にその人の罪悪を天帝に告げてしまう為に、徹夜して夜を過ごしてこれを防ぐ庚申講が古くから組織された。通常1年に6回巡る庚申の日が、5庚申や7庚申の年は新規に塚を建立して崇敬の念を表す。 |
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旧綴子村開村に力を尽くした奈良田喜左衛門と、地域神社の為に貢献著しかった高橋宇吉郎(高宇家)両氏の記念碑が参道に立つ。 |