1,斉明5年 (659) |
蝦夷征討の阿倍比羅夫将軍、肉入籠(ししりこ、米代川中流地域一帯)の地に至り、勝利を祈願し白鳥の留まる所を以って、九州豊前国の旧官幣大社宇佐神宮を勧請し地主神と併せ鎮座創祀すると伝え、東北地方最古の八幡宮とも称される。
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2,延暦16年 (797) |
征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷征討。綴子八幡宮・七座山天神宮に奉幣。 |
3,大同2年 (807) |
十和田火山噴火。 |
4,仁寿2年 (852) |
霊峰田代岳鎮座、田代山神社創建を慈覚大師円仁と伝える。 |
5,貞観元年 (859) |
米代川流域シラス大洪水。政所郡衛跡とされる胡桃館は埋没したが、その信仰祭祀施設として綴子八幡宮が擬定されている。 |
6,治暦・延久 1065〜1071 |
柵養(きかふ)の里として米代河畔に支郷知子内(ちこない)の切り開きを伝え、集落が開発される。(江戸中期に川欠けで廃村) |
7,建久2年 (1191) |
奥羽総奉行葛西清種、鎌倉将軍頼朝公の命を承け西木戸太郎国衛を比内郡三社大明神に祀り、綴子八幡宮に神御衣料を奉献。比内郡の国社、幕府崇敬社とされる。 |
8,建久9年 (1198) |
第82代後鳥羽天皇の御綸旨と伝える「壽命長久・御殿平穏・天下太平」の御祈祷願文所蔵。
武内氏の遠祖、近江国佐々木源氏に発し、比良明神・坂本日吉大社の神主となり、後に天皇勤仕を伝える。 |
9,弘長2年 (1262) |
社家武内氏の開祖常覚院元瑞道亨、朝廷より派遣され刑部岱に居住。綴子八幡宮の別当職となり神社を再興し社殿再建、比内郡(大館・北秋田)を統括し子孫連綿勤仕、修験神職の傍ら社会風教に勤める。この頃内館文庫創設、山伏修験道奥義秘伝書等平安期からの古文書を所蔵す。
常覚院山伏神楽伝授。綴子太鼓・獅子舞踊・源氏平家の旗行列行事や御湯立神楽神事等始まる。 |
10,元亨元年 (1321) |
綴子八幡宮別当、七座山天神宮別当となり再建。 |
11,正平12年 (1357) |
高橋刑部光透、南部一関より往来し刑部岱(旧本郷地)にて村長役となり、綴子八幡宮を開拓の守護神とする。 |
12,至徳3年 (1386) |
佐藤惣右衛門家の祖但馬忠勝が北館に居住す。武内・高橋・佐藤氏は領主浅利公より各80石給される。 |
13,永正15年 (1518) |
比内独鈷城主浅利公、奈良喜左衛門(80石)を綴子古城の館に鎮将として配置、八幡宮を鎮守社として社領80石寄進。糠沢に太田四郎左衛門(75石)を派遣す。 |
14,永禄2年 (1559) |
戦国の世、村の防衛と綴子川大洪水の為綴子古城館の八幡山(現在の上町)に移住。内館に鎮座する千年桂脇の西向きの社殿を東向きとし再建。この頃村防備と自己防衛の為に武道の型(棒術杖術)を住民に訓練す。これが後に行事化されて出陣行列の奴・棒使へ(ヤツパレ)の始まりとなる。 |
15,天正6年 (1578) |
北畠顕家公臣の裔、津軽浪岡から移住。大川氏は綴子田澤(後に黒澤)村上氏は掛泥に移住し、八幡宮を尊信す。 |
16,文禄4年 (1595) |
秋田安藤氏の軍兵により綴子坊澤は放火撫で切りの災厄に遭うが、八幡宮社務所(文庫建物)等は焼失を免れる。(太鼓等は焼失) |
17,慶長元年 (1596) |
八幡宮末社、館神社(現愛宕神社)神殿建立現存。 |
18,慶長2年 (1597) |
領主浅利文書に綴子50戸余り・糠沢7戸・知子内15戸・掛泥7戸とあり、本郷は城下町的造りで長町通りを中心とし、通町新町の3町内で成立。太鼓・獅子・出陣行列等の郷土行事は整備される。 |
19,元和元年 (1615) |
綴子総郷中で神殿(オムロ)の建立あり。5尺4方で千鳥唐破風流造、菊花紋葵紋有りて総漆塗り、虹梁等の彫刻部分は極彩色の美麗な物で現在本殿内陣として祀る。佐竹藩より社領50石寄進。 |
20,慶安元年 (1648) |
第11代別当常覚院實明、私塾として内館塾を創設。 |
21,慶安2年 (1649) |
親郷寄郷制度により高橋彌兵衛は親郷肝煎となり、鷹巣・太田・長坂・早口(北比内郡)を支配し八幡宮は総社格となる。 |
22,承応元年 (1688) |
綴子に駅馬合判、綴子駅宿場となり八幡宮道路交通の守護神となる。 |
23,元禄元年 (1688) |
本郷戸数70戸。郷土芸能行事充実し徳川豊臣の行列激化振興。 |
24,享保15年 (1730) |
本郷の戸数122戸、下町が開発され徳川豊臣行事整備充実される。第14代神宮寺烈光、内館塾を拡充強化し佐竹公の公許を得る。宮野伊賢・般若院英泉の2先哲を教授とし、綴子村民や付近集落民に初等普通教育を施すと共に、ご神徳の発揚と教化善導に勤める。 |
25,元文元年 (1736) |
綴子総郷中より、欅製刳抜胴巴紋神楽用締大鼓寄進。1尺4寸5分。 |
26,宝暦7年 (1757) |
現拝殿再建。遷宮竣工祭に神輿渡御、神器を以って御獅子(獅子舞)も供奉し梵天の奉納あり。 |
27,明和3年 (1766) |
烈光は京都醍醐三宝院御門跡より王朝時代の旧に復し、正式に神宮寺の称号を許容される。 |
28,明和4〜8年 1767〜1771 |
大旱魃あり。雨乞い請雨の法を修して百穀豊穣祈願し、その度に慈しみの降雨あり。 |
29,明和9年 (1772) |
五穀豊穣豊年万作雨乞い祈願の奉賽に神楽殿を建立。神楽式の荘厳な諸行事を執行。 |
30,安永8年 (1779) |
綴子八幡宮、秋田郡北比内郷28ケ村87社の総社となる。秋田六郡祭事記に「七座天神は秋田の郡、綴子の里にあり別当修験神宮寺」と見え、一之宮天神宮は綴子に鎮祭せられた。 |
31,寛政5年 (1793) |
第15代神宮寺龍峯、般若院英泉著の修験道根本法典「大孔雀明王経訂正本」上中下3,000部9,000巻を開版し全国に流布。出版記念碑は境内千年桂脇に建立。 |
32,文化元年 (1804) |
内館塾塾社本館を新築再建。(現社務所) |
33,文化8年 (1811) |
越中守津軽公本陣となり宿営、守札縁起書を献上し金300疋奉納あり。以来参勤交代に上下共守札を献上。本陣札は現存。 |
34,文化9年 (1812) |
本郷庚申講中より、神殿「オムロ」の修理塗り替え奉納。 |
35,文化10年 (1813) |
藩主佐竹義和公より健康長寿祈願に書「永保無強寿」軸物寄進。 |
36,文化14年 (1817) |
社殿改築に伴う、大宮柱の欽立始め。 |
37,文政2年 (1819) |
社殿改築竣工。拝殿長押上の蛙股に記載あり。 |
38,天保9年 (1838) |
これ以降数年にわたり佐竹公の代参として郡奉行参詣、初穂米や整銭社領30石寄進。 |
39,慶応4年 明治元年 (1868) |
戊辰の役で本陣となり、副総督の醍醐忠敬郷郡議宿営す。南部軍兵により本郷160戸中150戸焼失。第18代成運は従軍として軍功あり。神社本殿を守護し、長町通りの内館地内のみ焼け残る。戦後藩政庁出張所(後の軍役所前身)が設置される。 |
40,明治6年 (1873) |
神社制度が改正され八幡宮村社に列し、社名を八幡神社とする。 |
41,明治7年 (1874) |
綴子小学校を内館塾舎に創立、武内益雄初代校長に就任。 |
42,明治26年 (1893) |
戸長の高橋宇吉郎が本願主となり、総郷中より社殿の改築修理を行う。 |
43,明治43年 (1910) |
内務省の達示により、綴子各集落の鎮守15社を合祀し綴子神社と改称。 |
44,大正9年〜 (1920) |
神社境内に境内林植樹し整備。 |
45,大正11年 (1922) |
本殿幣殿を新築、拝殿を改築。11月15日遷宮祭執行。 |
46,大正14年 (1925) |
神饌幣帛料供進神社に指定され、三大祭(例祭・祈年祭・新嘗祭)には綴子村より供進使として村長の参向あり。 |
47,昭和12年 (1937) |
皇紀2600年奉祝事業として、村内有力者3氏願主となり社殿修築。 |
48,昭和13年 (1938) |
皇紀2600年奉祝事業として、同氏天井・畳奉納。 |
49,昭和21年 (1946) |
敗戦後、勅令改正により新法人神社設立規則承認せられ、神社本庁に所属。 |
50,昭和25年 (1950) |
国有境内地の無償譲与を受ける。 |
51,昭和29年 (1954) |
村内外氏子崇敬者の寄付金により、殿内調度品30品奉納。 |
52,昭和31年 (1956) |
神饌殿、宝物殿及び大鳥居造営。 |
53,昭和34年 (1959) |
鎮座1300年・社殿再建200年記念大祭執行。全村より御神輿奉納。 |
54,昭和41年 (1966) |
参道及び向拝前舗装整備。 |
55,昭和43年 (1968) |
明治維新100年記念大祭執行に併せ、内館文庫収蔵庫竣工。社殿屋根葺替し社殿社務所修築整備。 |
56,昭和60年 (1985) |
社殿修築整備。 |
57,平成4年 (1992) |
本殿祝詞舎屋根葺替、祝詞舎改築整備。 |
58,平成9年 (1997) |
拝殿大屋根銅板葺き事業。 |
59,平成19年 (2007) |
神饌所・伺候所天井張替。第26代宮司就任奉告祭執行。全村より衣冠奉納。 |
60,平成21年 (2009) |
鎮座1350年式年大祭執行。神社本庁幣供進、献幣使秋田県神社庁長。綴子全域を御神輿渡御。80年ぶりに上町下町の同年奉納行事。俳優高橋克典氏正式参拝、本榊記念植樹、記念講演。社殿天井畳新調、殿内調度品奉納。神社山林整備事業、欅30本記念植樹。記念誌発行、綴子神社崇敬会発足。 |
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